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曇った鏡

黒曜苑 更新履歴兼日記
2024
04,26

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2012
08,25
お久しぶりです。
本日水滸アフタヌーンティー会なるものに参加させていただいたのですが、そこで水滸後伝の話題が上りました。
そして帰り道に近所の神社のお祭り……というか神社に至る坂道を見て、何故だかそれを「あちらの世界へ通ずる道」だと思い、唐突に思い至ったただの妄想です。
我ながら飛躍した連想経路だと思いますが、多分夕べ金曜ロードショーで『崖の上のポニョ』やってて、ポニョの考察とか見ちゃったせいだと思います。

さ、前置きは置いておき、語っちゃいますね。

結論から言うと、水滸後伝はあの世の物語かもしれない、ということです。
だから史実と違ってハッピーエンドだし、シャム国そのものが実在しない。
李俊が渡ったシャムの国とはニライカナイとか竜宮とかなんかその辺の、所謂「あちらの世界」。
なんでこう思うのかを、これから説明していきます。

まず、水滸108星はそもそもこの世の存在ではない。
何しろ水滸伝本編で伏魔殿封印されていた魔王と語られている。
魔王とはいえ、本来天を飾る星々である彼らがどうして人界にいるのかは本編では語られていないが、これについては「かぐや姫」よろしく天界で犯した罪を人界で清めて点に帰るまでの通過儀礼という説がある。
方臘戦や戦後直後のあれこれでサクッと死んだ人たちは罪を雪いて天に帰ったのなら、生き残り組はどうしたのだろうか?
罪を雪ぎきれなかったのか?それもあるかもしれない。
が、こうは考えられないだろうか。

自分の意志で天に帰るのを拒んだのではないか?

そういえば李俊ら水軍を中心として、招安直前や方臘戦中に宋江との決別を匂わすシーンがあった気がするぞー?

とはいえ、もともと人ならぬ身の彼らである。結局人界に長くは留まれない。
あがいた結果向かった先が海の向こうのシャム国=天界とは別次元のあちらの世界だった。
先のポニョ考察にもあるように、海を渡るというのは死後の世界や異界への旅立ちを暗喩させる表現でもある。

シャム国の正体だが、これは竜宮ではないかと考えている。
根拠は李俊のあだ名・混江竜と、その配下・童兄弟のあだ名・出洞蛟&翻江蜃。蛟と蜃というのは虹と並んで竜の眷属とされる存在である。
もしかして李俊の魔王としての出自が竜神ということが考えられるのではないだろうか。だとすれば李俊が安住を求める地とは竜宮をおいて他ならない。
シャムの国を平らげてシャム国王から禅譲されるのは、李俊=竜神が留守中に荒れてしまった国を建てなおして、もう一度玉座に返り咲くための通過儀礼と考えられる。
そういえば眷属の一つ・虹が108星にはいないが、もしかするとこいつが李俊=竜神不在の間国を支えていたシャム国王かもしれない。
眷属の一つを国元に残しておいたからこそあっさりシャム=竜宮に渡れたのかもしれない。

では金との戦いとは何なのか?
人界の出来事のようだが、そもそも史実と異なる時点で既に「あちらの世界」とも考えられる。
もしくは人界と連動しているが、実は人界と決別するための通過儀礼だったということではなかろうか。

そもそも水軍勢は108星の中でも異色の存在である。
全体的にはまとまっているが基本的に烏合の衆である梁山泊の中で妙な結束感・独立感を保っているのが李俊率いる水軍である。
水軍という特殊な部隊であることに起因するものと当然考えられるが、108魔王の中でも竜神とその配下という、異端な存在だったからだと考えるとちょっと面白い。
108星中の兄弟は天地の星に分かれていない限り、基本的に席次は隣どおしである。が、張兄弟と阮3兄弟だけはなぜか交互に並べられている。
天魁星・宋江が星を束ねるため、彼らの結束を乱して竜神=李俊の結束を乱す意図があったとしたらどうだろう?
方臘戦中に死別し、宋江とともに天に帰ってしまったのはそのせいではないか?
一方で、もともと竜の分身である童兄弟は兄弟の結束を乱されず、そろって生き残っている。

ところで水滸後伝には生き残った108星のほかに、108星ジュニア、王進、扈成らがシャムに渡っている。これは何故か?
単に108星との絆があったから引っ張られたのではないかと。
絆があるせいでそう遠くない未来に宋江と一緒に天に帰るグループに引っ張られる運命にあったのを、李俊が解放するべく回収したのかもしれない。
もう一つ、あんまり考えたくない動機があるが、これは相棒・穆弘を連れ去った宋江へのあてつけ。
つまり、「俺の片割れを奪ったお前から、可愛い子供たちを奪ってやるぞ」的な……うん、これはちょっと怖いかな……。

異界の門としての海について。
海も山も、生(恵み)と死(遭難etc)の両方の側面を持つことから異界の門と考えられる。
山はわりと高確率で何かしらの神が封じられていることが多い。そしてそこには祠なり廟なりあって、神の領域と人の領域とを分けるようなものが何かしらある。日本では鳥居や参道がこれにあたる。
一方、海はといえば、何もない。
強いて言えば四海竜王とかがいるらしいってくらいだが、具体的な線引きのようなものはない。つまり境界が常に曖昧である。
境界があいまいだから、人界と「あちらの世界」が混同されたまま水滸後伝の世界が紡がれているのではないだろうか。

……なーんてことを考えました。

私は水滸伝を神話としてとらえる傾向にあるため、こんなことを考えるのだと思います。
もともと、水滸後伝はハッピーエンドで気持ち良い反面、都合がよすぎてリアリティがないと感じることもありました。
だから私は水滸伝の続編は岳飛伝で、後伝は水滸伝の悲壮な結末に救いを求めた「if」の物語という認識でいました。
が、本編で語りきれなかったものをちょっと違う視点で描いた作品だと考えると面白いとも思うんですよね。
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1985/08/16
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大学院生
趣味:
絵描き、漫画・ゲーム
自己紹介:
今春から大学院生&ペーパー薬剤師。
水滸伝との出会いの書は陳瞬臣・手塚修監修の漫画『中国の歴史』。初恋の人は林冲ですが何か。
山田章博と田中芳樹とKOKIAが大好きです。
『幻想水滸伝』も大好きだけど水滸ネタが尽きてきたならいい加減名前だけ使うのやめて欲しいぞ。(´・ω・`)
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